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NISEKO FREESTYLE SESSION について

yukiasobi_logoNISEKO FREESTYLE SESSION (ニセコ・フリースタイル・セッション)とは、ニセコ・グランヒラフスキー場にてシーズンの終わりの時期に行われるフリースタイル・スキーとフリースタイル・スノーボードの草大会です。

開催前夜

1980年代後半、モーグルスキーヤーが少しずつ増えて来た時期。4月に入ると5月連休までスキーの出来るニセコに多くのモーグラーが集まって来ました。

その数は数十人にものぼり、道内トップレベルのモーグラーがお互いにエアーなどを競って滑る光景を毎週末、見受けるようになりました。

その光景を見て地元ペンションオーナーが実行委委員会を立ち上げ、アルベールビルオリンピック代表の山崎修氏と協力して大会開催を企画しました。
「スキーの町」倶知安にふさわしい春のビッグイベントになるような大会にしようと。

第一回大会

1991年4月にモーグルスキーの大会である、「第一回スーパーバンプスニセコカップ」が開催されました。当時開催場所はエース第4とキング第4リフト中間の「ラージコース」にワールドカップでも見る事ができない全長300mの超ロングコースという規制概念を振り払ったニセコならではの「スーパー」な「バンプス」という意味でこの大会名が付けられました。

当時はワールドカップでも人為的に作られたきれいなコブ斜面やテーブルトップというものは存在せず、自然の地形を利用して滑り降り、任意の場所でジャンプする HOTDOG SKI のなごりがありましたが、圧雪車でジャンプ台を盛り上げスキーヤーが滑り降りてコブを作り上げる現代モーグルの作りとなっていたことが大きな特徴でした。

ちなみに第1回大会の優勝は男子が現在の実行委委員長の伊藤篤、女子は長野五輪女子金メダリストである里谷多英選手です。

第2回目はより本格的なコースレイアウトに仕上げる為、メインゲレンデである「フリココース」に会場を移し、同時にテレビで1時間番組として放映されはじめました。

3年目は全日本スキー連盟公認コースとなった「羊蹄サンセットコース」に移動し、参加選手も当時の全日本ナショナルチームのほとんどの選手が参加するという、事実上日本一の草大会となり、岩渕隆二選手の4大会連続優勝、坂本豪大選手「脅威のクイント技」、里谷多英選手をしても5回出場して3回しか勝てなかったなどなど、のちに伝説となる数々のエピソードを繰り広げていきました。

モーグルブーム到来

1997年、里谷多英選手の長野オリンピック優勝でモーグル競技が一大ブレークし、「ロシニョールカップ」、「SAJ公認デュアルモーグル大会」という2日連続大会開催という年が続き、参加人数は1大会で240名以上になるほどでした。

9回大会まではテレビ放映があった他、毎回多彩なゲストが大会を盛り上げてくれました。
10回大会目からスキー、スノーボード両方が参加できるビックエアー競技が大ブレークし、ジャンプ技だけを競う「ラディカルエアーコンテスト」を取り入れ、2競技合わせた「ニセコフリーライドセッション」に変貌していきました。

天候不安定な時期の開催という事もあり場所変更が余儀なくされ一番下のゴンドラ乗り場上で開催することとなりましたが、駐車場からすぐの場所という立地条件の良さで、スキーをはかなくても歩いて観戦ができコースの周りは観客で埋め尽くすほど盛り上がっていました。

モーグルの聖地

ゴンドラ下コースの地形が大幅に改良された事で4度目となる変更が余儀なくされた場所がニセコのモーグル聖地「第2のカベ」。グランヒラフを拠点に活動するモーグルスキーヤーにとって「第2のカベ」はまさに聖地。ここで第18回、19回スーパーバンプスはワールドカップに引けを取らないコースレイアウトで開催されました。

この大会はナショナルチームメンバーの優勝か、大会に優勝するとナショナルチーム入りすると言うのが伝説になり、今も続いています。

倶知安町長杯スーパーバンプスニセコカップについて

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スーパーバンプスは、スキーのモーグル競技です。フリースタイル競技の一種で、日本では里谷多英選手、上村愛子選手、附田雄剛選手、村田愛里咲選手などの活躍で有名になりました。

とくに1998年に行われた長野オリンピックのモーグル競技では、日本の里谷多英選手が金メダルを手にし、その後も上村愛子選手のワールドカップでの活躍など、多くの日本人選手が活躍しています。

モーグルは急な斜面に配置された連続されたコブと、2カ所のジャンプ台を滑り、ターン技術、ジャンプ技術、そしてスピードを競うもので、その派手なアクションと正確な技術は見ている観客に対して感動を与えることができます。

スーパーバンプスは、そういったワールドカップクラスの選手から、モーグル入門者まで、モーグルに関心のある方であれば、どなたでも出場のできる大会として、日本一の草レース大会であると自負しています。

また、北海道のジュニア選手育成にも力を入れています。今後の日本のスキーを支えていくジュニア選手たちに、開催日前日には無料のレッスンを行っています。スーパーバンプス出身の日本代表選手も多く生まれていますので、その成果には眼を見張るものがあると言えます。

しかしながら、こういった堅苦しいものばかりではなく、春のニセコのお祭りとして、テレマークスキーでのモーグル挑戦や、コスプレでの出場などもありますので、出場しても楽しく、そして見に来ても楽しい大会として定着しています。

ニセコ・グランヒラフについて

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ニセコアンヌプリの東側斜面に位置し、ニセコエリアで最大の規模を誇るスキー場です。山系と日本海、羊蹄山、尻別川などとの位置関係ほか地理的要因により、他の世界的スノーリゾートに比べても安定した降雪があり、雪質も良好なこと、また地形的にも変化があり、国内外のスキーヤー・スノーボーダーから高い人気を得ています。

スキー場としての歴史は1961年12月に初のスキーリフトがオープンしたことで始まり、その後、アルペンリフト(現エースリフト側)と高原リフト(現キングリフト側)が競いあうような形で発展。1994年に花園リフト(現同)がオープンしてからは隣接する3エリアを2つの会社が運営する形となっていたが、2004年に買収により運営会社が一本化、3エリアをまとめて「ニセコマウンテンリゾート グラン・ヒラフ」というリゾート名を冠して現在に到っています。

NFSは、モーグル愛好者に人気の「2壁(国体コース下部、急斜面部分の通称)」を擁する高原リフトに第一回大会開催の協力を依頼したことから協力関係が始まりました。現在では、春のグラン・ヒラフ名物大会として定着しています。

ニセコ グラン・ヒラフ Web サイト

倶知安町について

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倶知安町(くっちゃんちょう)は、明治25年、四国・徳島県などから来た十数名の開拓者が原野を切り開き、定住を始めたことがきっかけとなり開かれました。当初虻田村の一部でしたが、明治26年に分村して倶知安村ができ、大正5年になると町制が敷かれました。農地としても好条件の倶知安村は、開村して10年目には人口1万人を超え、行政機関の出先や交通の要所として発展しました。現在でも、後志(しりべし)支庁が設置されており、後志地域の行政の中心地となっています。

周囲をニセコ連峰の山々に囲まれ、独立峰である羊蹄山、日本一の清流を誇る尻別川を擁する本町は、ジャガイモを代表とする農業に加えて、ラフティング、スキー、スノーボードなどアウトドアを目的とした観光客が国内外から多く集まる「国際リゾート都市」として注目されています。

倶知安町 Web サイト

町名の由来

「くっちゃん」という独特の地名はアイヌ語に由来します。「くだのようなところを流れ出るところ」という意味の「クッ・シャン・イ」に漢字をあてたものといわれています。